新刊『もうひとつの脳』に書いた「訳者あとがき」を以下に掲載しておきます。この「あとがき」から興味が惹かれましたら、本編もお読みください(こちら→
https://goo.gl/awpFE https://goo.gl/28J3bh)。
本書『もうひとつの脳』は、R・ダグラス・フィールズ著 “The Other Brain: The Scientific and Medical Breakthroughs That Will Heal Our Brains and Revolutionize Our Health ”を翻訳したものである。脳および神経系は、大別して二種類の細胞群、つまり神経細胞(ニューロン)と神経膠細胞(グリア)から構成されていることはよく知られている。本書の著者フィールズは、後者のグリアについて、神経系におけるその存在意義を理解するため、一九九〇年代から長年にわたって研究を続けている第一線の神経科学者である。とくに、ニューロンとグリア間の連係プレイ(相互作用)が、彼の研究における中心的な課題であり、これまで彼が一貫して問い続けてきた疑問は、脳あるいは神経系における「グリアの役割は何か」であった。神経生物学および医学の中では、脳内のニューロン機能に関する理解は急速に進んできた一方で、グリアの生理的役割は、多くの研究者が真剣に着目することもなく、長らく大きな謎に包まれている。
活発な研究・思索活動を通してフィールズの到達した結論は、私たちの脳神経に関する理解を根底から揺るがすものだった。具体的には、これまで、あるいは今も神経科学の主流であり続けている「ニューロン中心主義」(つまり、脳の主役はニューロンである)という見解が、まったく不完全で、大きな変更を迫られており、実は「グリアがニューロンを制御する」という主客転倒、あるいはニューロン・グリア両立主義とも呼ぶべきものであるというのだ。これは大いなる驚きであり、つねに難問に挑み続ける挑戦的な多くの神経科学者たちにとっては、容易に看過できない言明であるだけでなく、専門外の一般読者にとっても好奇心を強く刺激して、放置しておけない問題ではないだろうか。
本書のタイトル『もうひとつの脳』からも暗示されるように、脳の働き、さらには精神神経疾患の原因や治療に興味を抱く読者は、読み進めるにつれて、これまでの知識から想像もしなかったような方向へと導かれていくことになる。本書は、従来の観点とは大きくかけ離れた独自の角度から、脳神経系の「新たな仕組み(メカニズム)」に切り込んでいる。その結果、著者フィールズは、グリアの機能に関する実験から得られた一連の証拠を明解、平易に解説しながら、これまでの学説とは対照的な結論、つまり人間の精神・心を支えているのは、従来から推論されてきた「ニューロンの脳」だけでなく、グリアによる「もうひとつの脳」が欠くことのできない重要な役割を果たしていると洞察を深めていく。
私たちの脳の活動には、速断を要する直感的な思考とそれに伴う速い反応、さらには深い思索、意識や感情、情緒のような緩やかに展開する生理過程が共存していて、前者はニューロンの得意とする機能であり、後者の緩やかで奥深い応答がグリアの主導する守備範囲であるとするのが、本書を通底している著者の根本的な思想のようである。つまり、グリア・ネットワークの大きな役割のひとつは、脳内の広範な多くの部位をつなぐ個々のニューロン集団を、同期して活動させるための統合装置であろうと、フィールズは提唱している。
ある種のグリアが、ニューロン結合(シナプス)の再構築を介して、記憶・学習を制御するという最先端の考えにも、著者の推論はおよんでいる。また、脳神経の根底を支えている興味深い重要な科学的原理や考え方の数々について、渓流に浮かべた笹舟が流れていくように、流麗な科学的論理に沿って、疑問や問題点を畳みかけるように繰り出しながら、それらに解答や洞察を提示していく著者の手法は、見事な練熟と言うほかない。
さらには神経科学に突破口を開いた革新的な研究成果をもたらした科学者たちの知られざるエピソード(多くは専門家にとっても未知であろう)や、神経科学に関係するスポーツ選手、映画スターやミュージシャンなどの魅惑的な逸話が全編を通して散りばめられてあり、読者を刺激して飽きさせることのない著者の博覧強記には推服するばかりである。また、科学分野の新人が、その当時の推測や理解を大きく超える新発見をして、新たな学説を提示したときに、時の重鎮たちを含めた同僚がどのように対応するかで、それ以降の科学の流れや発見者の人生が、どれほど激しく影響を受けるかを例示しているのは、この著者の経験に基づいているのかどうかは計り知れないものの、科学だけではなく、生き方の面からもきわめて示唆的な教訓として響いてくるであろう。
神経科学の父祖とも尊敬されているラモニ・カハールが、十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、多くの動物について様々な発達過程に注目して、丹念かつ克明な顕微鏡観察を通して、脳神経組織は「独立したニューロンが、別のニューロンに接続することによって構成されている」ことを見抜き、脳神経系の構造・働ききを支える原理として「ニューロン説」を提唱した。その一方で、脳にはニューロンとは形態が著しく異なる別なカテゴリーに属する細胞が存在することも、カハールは明瞭に認知し、それらの細胞を記録に残していて、その意味を探究することは、後生の人たちに託したと著者は想像している。
この細胞群は、高名な病理学者ルドルフ・ウィルヒョウによって{神経膠細胞/ニューログリア}(ニューロンをつなぐ糊のような細胞)と命名された。しかし、このグリア細胞は、ニューロン説の出現から一〇〇年以上にわたって多くの神経科学者の視界から逃れていた。一九六〇年代中頃に、神経生物学という学問分野を国際的に先駆けて提唱したステファン・クフラーらのグループが、電気生理学的手法によるグリアの先駆的研究を報告したことは本書でも取り上げられているが、その重要性を見通せる同僚学者はほとんどいなかった(彼の創設したハーバード大学医学部・神経生物学科に留学する機会のあった訳者のひとりも、クフラー先生からの研究上の助言や明解で美しい神経・シナプス論文に強く感銘を受けたが、あのグリア研究の先見性を理解できなかったことは今も記憶している)。
しかし、二一世紀に入って状況は大きく変わり、神経科学の中でもグリアを探る研究者は増え始め、今日では多くの科学雑誌でもグリア研究は頻繁に取り上げられるようになっている。神経科学分野で主流の月刊研究雑誌であるNeuronは毎号一〇編あまりの論文を掲載するが、そのうち少なくとも二・三編はグリアを対象とした研究論文である。皮肉なことに脳神経研究のトップ・ジャーナルのタイトルが「ニューロン」とは、この雑誌が創刊された一九八八年当時、神経科学者たちの意識の中にグリアの占める割合がどの程度であったかを、よく物語っているようである。近い将来に、この雑誌タイトルが「ニューロンとグリア」とでも変更されるかどうかは別にして、雑誌の名称に違和感を覚える人びとは着実に増えていくことは疑いないであろう。
今後さらにグリアの理解が進めば、脳の動作原理に関する基礎的な理解が進むだけでなく、脳神経系の病気(認知症、統合失調症、多くの神経変性症、てんかん、脳腫瘍など)の治療応用に向けた地平が大きく広がることは、著者が指摘するとおりである。本書は、サイエンスを愛好する幅広い層の読者のために書かれたものであり、神経系の古くて新しい側面へ鮮明なスポットを当てて、「私たちの脳あるいは心は、二つの要因が協調して支えられている」ことを平明に説得する優れた物語である。全編を通して語られるさまざまな逸話の中でも白眉は、「アインシュタインの脳」を解剖したマリアン・ダイアモンドの発見である。推理小説の筋を明かすようなことになるので細部には立ち入れないが、彼女の解剖所見は、「アインシュタインの天才が、ニューロンではなくグリアに支えられていた」ことを強く示唆しているのである。この事実だけでも、脳の研究者はもちろんのこと、一般の読者をも大いに魅了して、想像を強く揺るがすことであろう。
また本書は、神経生物学を専攻しニューロンの働きを研究しようとしている学部・大学院生には、「グリア研究にも目を向ける絶好のチャンス」を提供するだろう。さらには生命科学・理工系で人工知能などの分野に携わる人たち、医療分野(医学部・薬学部・看護学部・保健福祉学部など)の学生や指導者にも本書を広く推薦することができる。それから、理科の好きな中・高校生にも、「あなたがたの脳の不思議やサイエンスの面白味」を手にとって感じるために、ぜひ読んでもらいたいと願っている。
本書が完成に漕ぎ着けるまでには、講談社学芸部ブルーバックスの篠木和久さん、高月順一さん、小澤久さんとスタッフの皆さんに、たいへんお世話をいただいた。ここに心より感謝して御礼を申しあげたい。
二〇一八年三月
訳者
0 件のコメント:
コメントを投稿